2020年オリンピックへの提案

オリンピックの本質は、勝ち負けではなく、「体」の使い方や考え方にこそあると思う。体のあり方や使い方を、改めて学び考え直す教育の場としてのオリンピックを提案したい。


私たちは、生まれた時から体を与えられて生まれてくる。体は生命の歴史が詰まった芸術作品だが、すべての細胞や臓器の由来は、自分が体と対話して探しに行かないと分からない。全員が体を与えられているが、その使い方を教えることができる人はいない。それぞれが見よう見まねで体を運用している。体は、食(固体食、液体食、気体食)を維持できれば、自動的に生きて動く仕組みがあるからだ。体の使い方はどうしても自己流となり、それぞれに与えられた体の条件の中で最善をはかるようになる。

体の能力を最大限に活用した人達の体の使い方は美しい。それは「競技」や「競争」という形をとるほうが一見わかりやすいため、便宜的に「勝ち負けを競うスポーツ」という形で、鑑賞し、感動し、歓喜する。ただ、体の使い方は唯一の一種類しかあるわけではない。体は60兆個の細胞から構成されていて、その組み合わせは天文学的な組み合わせになるし、一人一人に与えられた体の条件は一人一人違うからだ。

自分は医療の現場で医師として働いている。体が不調和になったとき、調和へと戻っていくお手伝いをする仕事が医療職の役割だ。その時に思うのは、人の体は常に調和を求め、調和へと向かっている、ということだ。それは生命のあり方と言ってもいいだろう。

体や生命は、多様性と調和という難題を、いとも容易く成し遂げている。なぜなら、それは到達すべき目標というよりも、生命の前提であり、生命のあり方そのものだからだ。体の部分ではなく、全体を見ないとそうしたことには気づかない。

過剰なスポーツをして体を壊した人も数多く診てきた。過酷な勝ち負けの世界で心を壊した人も数多く診てきた。人の体を見ている自分としては、オリンピックには別の在り方が同時並行に存在してもいいのではないかと思う。

2020年オリンピックへの提言をしたい。子供のころ、オリンピックは愛と平和の祭典だ、と聞いた覚えがある。それならば、オリンピックは、「愛と平和」の「祭り」としてのホームポジションに戻り続ける必要があるのではないだろうか。「祭り」は古来から日本人がお行い続けてきた、日本の深い霊性の発露でもあるからだ。

人の体は競い争うものではない。体や生命の調和のあり方に感動し、感謝しながら大切に使わせていただくものだと思う。


現代スポーツでは、いかに体を疲れさせて筋肉を肥大させるか、という体の使い方を見ることがある。それは基本的に体を壊す方向へ体を使っている。ちょっとしたバランスを崩すと大怪我をする。体の気持ちになって考えてみると、怪我をすることで体がブレーキをかけているとも思える。意識的に筋肉で体を制御することは、若いときには多少の無茶が効くが、老いという自然なプロセスの中では、そうした体の使い方には必ず無理が来る。

一方、伝統の世界では、いかに体を疲れずに使うか、という身体技法が大切にされていた。それは伝統芸能や「道」の世界における身体技法としてその記憶が残っている。骨や骨組みを正しく無理なく自然な流れで体を運用していくことであり、筋肉は骨を補助するために最小限の使用に留めながら使わせてもらうことになる。若さや力よりも、経験や技こそが大切になり、体といかに調和するかが重要なことだ。

伝統に残る古の体の使い方は、いかに身体を疲れさせずに動かすか、最小限の力でゆっくり、体の調和を愛でながら動かすことに特徴があった。だからこそ、伝統芸能や「道」の世界では、年をとればとるほど、体の動きは深みを増していき、体の「質」の違いこそが際立ってくる。人生というプロセスの中で、そうした年配の方々から体の使い方の本質を学ぶことは、年上の方を自然に尊敬するようになる。年上の方を尊敬できる社会は豊かな社会だろう。

そうした体の使い方は、60兆個のすべての細胞を調和させ、体の全てを一つにして扱う身体技法であり、まさに「愛と平和」の「祭り」のオリンピックとしてふわさしい体の使い方ではないだろうか。しかも、それは失われ忘れられたものではなく、あらゆる伝統芸能や「道」の世界の中に、型や所作として静かに保存され受け継がれている。それは体によって伝えられてきた「身体言語」なのだ。頭で伝わる文書や文字は時に改ざんされることもあるが、身体言語は元の意味がそのままで伝えられる。

「道」は、日本に数多くある。

芸道としての茶道、香道、書道、華道・・があり、古武道や武道としての柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた・・があり、能楽、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃があり、日本舞踊、神楽、田楽、雅楽、舞楽、猿楽、盆踊りがある。

雅楽(謡物、歌舞、管弦、舞楽)や邦楽(箏曲、琵琶曲、胡弓楽、尺八、三味線)、浄瑠璃節や長唄、民謡、島唄などの音楽にも、現代とは質の異なった身体技法が数多く残っている。

そうした伝統的な体の運用技術は、年を重ねれば重ねるほど質が高まり深まるものである。私たちは体の奥深さを学ぶことができる。

オリンピックが、人の体の使い方を学ぶ場として、「愛と平和」の「祭り」の場としての役割もあるのならば、体の能力の優劣を競うだけではなく、伝統に残る体の使い方を学ぶ場としても存在してほしいと強く思う。伝統に残る身体技法は争ったり競ったり闘ったりするものではないため、従来のスポーツとは全く違うものとして提示されるだろう。具体的には、美や芸術や養生法や医療に近いものとして体験することになる。それはどこか遠いところにある特殊な人間だけが習得できる身体技法としてではなく、今からでも誰もが取り組める体の使い方になる。体の学び場として。対話の場として。

日本の各地方には歴史や伝統が残る。どんな地方にも体の使い方に関して名人や達人が数多く存在している。すべての地方が主体となり、自然の中で名人や達人の質の高い体の使い方を学ぶ場として、オリンピックは同時存在してもいいのでないかと思う。地方と都市との協力関係は、人の体が多様な臓器の協力の元で運用されていることのメタファーでもある。

医療に携わる人たちも、人の体の奥深さや体の使い方に関して古から多くを学ぶ必要がある。なぜなら、普遍的な体の使い方を学ぶことは、体の調和を取り戻す予防医学となり、養生法ともなりうるからだ。

医療現場で働いていると、日々の経験から体や病の本質のことを考えるようになった。

西洋医学では「病」を定義する。「病」が中核にすえられた医療なので、働く場も「病院」という名前になる。病と闘い、倒そうと考える。病は侵略者であり悪の存在とみなされる。理由はどうあれ、病を倒すことが至上命題になる。その過程では、なぜ病が生まれたのか、病はそもそも何か訴えようとしているのか、など、相手の声に静かに耳を傾け対話する機会には恵まれない。医療現場では、こういうアプローチだけでは、大きな限界があることも日々感じていた。なぜなら、病と勝利し表面では見えなくなっても、根本原因が変化していなければまた別の形で何度も現れてくることを日々経験しているからだ。

伝統医療では「健康」を最初に決める。自分がどこへ向かっていきたいか、目的地を決める。次は、そこへ向けて今何ができるかを主体的に考え、自分が主役となり自分自身の心や体の問題として取り組んでいく。「健康」とは「調和」と言い換えることもできる。いま現在の状態が「不調和」か「調和」なのかを、心や体と対話していく。いかにして自分自身にとっての調和やバランスを全体的に獲得していくか、ということが大切なことだ。

人は誰もがそれぞれの絶対的な人生を生きている。誰かと比較することはできない。全員がオリジナルな人生を生きていて、心や体に関しても同じことだ。与えられた心や体に最大限の尊重を払いながら、その人にとっての調和を人生というプロセスの中で実現していく。そういう考え方のほうが、医療においてより本質的ではないかと思うようになった。

能楽の大成者である世阿弥は、『風姿花伝』(第五 奥儀に云う)の中でこういう文章を記している。

「そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年(かれいえんねん)の法なるべし。きはめきはめては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり」

訳してみると、

「そもそも、藝能とは、みんなの心を柔らかく和(やわら)げて、上や下などという考えから自由になって、寿や福をどんどん増やしていって、寿命を長くして人生を重ねていくためのものなのですよ。すべての道は、極めると全て同じことです。寿や福をどんどん増やしていくもの。それがすべての道が極めた先にあるものです。」

世阿弥が言っていることは医療の目標そのものであり、医療が忘れかけている人の体や心の本質を思い出させてくれる。

「病」を治す・治される、という発想で心や体を捉え続ける限り、「病」とは永遠に戦い続ける必要がある。それは、自分の体を戦場とみなすことであり、戦争のメタファーで物事をとらえることでもある。それは現代スポーツが争って勝つことだけを至上命題にしていることと似ている。

伝統の世界では、心や体を調和の場であると捉え、「道」や「美」という調和の次元を道標としていたのだと思う。能楽はもちろん、あらゆる伝統の領域に底通している。「道」や「美」という調和の場を目標とすることで、体や心はおのずから整っていく。結果として病気がよくなっていることもある。たとえ病気がそのままであったとしても、心や体とのよりよい共存・共生関係に至ることができる。

自分が一生付き合っていく心や体の問題を、争いや闘いの場としではなく、愛や調和の場としてとらえていくことは、この世界を愛や調和の場にしていくことにもつながるのではないだろうか。スタート地点は、常に自分自身の心や体にある。

・・・・・・・

オリンピックを、体の問題としてとらえ、体の普遍性を探求し、共有していく場として機能すれば、それは生命の在り方としての愛と調和の場を学ぶことになる。オリンピックは古代の本来の目的に戻るのではないだろうか。

地球を一つの人体としてとらえたときに、すべての国や人種、宗教が、それぞれの役割を果たしながら協力して調和して生きていくことの疑似体験になる。体が病むと細胞は生きる場を失うことと同じように、地球が病んでしまうとすべての人たちは生きる場を失ってしまう。自然や体の原理から、地球や自然との関係性に関しても多くを学ぶ必要がある。オリンピックはそうした地球規模の体を学ぶ学校として存在してほしい。そうしたら、全員が主体的に参加できるものになる。

体や命の本質を学ぶことは、平和運動でもあると思う。なぜなら、体や命はまさに愛と調和の原理で動いているからだ。生きている、とはそういうことだ。全員がそうした体の原理を与えられて、同時代に生きている。オリンピックが、そうした体の学びの場になることを望む。全員が学びの徒として同じ立場であり、お互いが教えあい、学びあい、成長しあう場として。

2020年に日本でオリンピックが開催される。

日本が世界の中で大きな役割を果たせるように、歴史や伝統から多くを学び、次の世代へと受け渡していく場になるはずだ。

稲葉俊郎

*『秘伝2016年10月号』でもロルフィングの藤本靖さんとこの提案に関して対談しております。是非お読みください。

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