folklore

民俗学の映像を定期的に上映しています。

古来の暮らしは「自然」と一体になったものでした。

「暮らし」や「生活」(Life)の中に、文化も食事も医療も芸能も技術も信仰もすべてが総合的に込められていました。すべての表現として、自然と一体化した暮らしや生活があったと思うのです。

未来の医療を考える前に、専門分化していく前の暮らしを共有することが大切だと思っています。


今は、主に民映研(民族文化映像研究所)の映像をお借りしながら、ShiawaseLink(しあわせリンク)(代表:本間晶子)さんのお力を借りながら、定期的に上映会をしています(千代田区内神田2-3-14 平沢ビル6階)。

映像民俗学者である姫田忠義監督(1928-2013年)の愛と情熱が静かなタッチで込められた素晴らしい映像の記録です。こちらには100本以上の貴重な民俗学の映像が保管されています。少しずつお借りして上映会をしながら、その後に参加者全員で感想をShareしています。

<参考>

民映研(民族文化映像研究所)(Twitter)(Facebook

姫田忠義監督(Wikipedia)(民俗学関連サイト)(姫田忠義資料室 | Facebook


●2015/10/2 第1回 民俗学上映会

◇「シシリムカのほとりで アイヌ伝承文化の記録」

(→民映研動画)

1996 年/152 分 平取町・北海道開発局室蘭開発建設部沙流川ダム建設事務所委嘱

このフィルムは、明治以降急激に日本国家に包含されていったアイヌの人々が、その運命的激変の中で、なお、忘れなかった大自然との共生のありようを、日高地方の一隅、シシリムカ(沙流川)のほとりにある平取町・二風谷で記録したものである。

  日高山脈の最高峰ポロシリ(幌尻)岳。シシリムカに沿った河岸段丘にあるシンプイ(泉)のもとにアイヌの人々は生活を築いてきた。

 春、プクサ(行者大蒜)、ブクサキナ(二輪草)、ソロマ(ぜんまい)、コロコニ(蕗)、トレプ(ゆうばり)等の豊かな山菜の採取。 

 川原の砂地をも畑にしたピクタトイ(川原の畑)。アイヌの農耕の紀玄を思わせる重要な手がかりである。そして畑を耕す馬。明治以降、二風谷にも西欧風馬耕法が導入された。狩猟採集生活者から農耕者へ転じざるを得なかったアイヌの人たちの運命の象徴であった。

 6 月、山でシナやオヒョウの樹皮を採って糸にし、アツト゜シ(オヒョウの木の皮の織物)やトマ(ござ)を織る。

 夏、巨大な桂の木で丸木舟をつくる。丸木舟は二風谷の人たちのとってなくてはならない生活用具であった。その丸木舟を石斧でつくった各種の石材で試作し、沙流川の銘石「青トラ」が最も優れた石斧の材料であることも確認された。チプサンケ(舟下ろし儀礼)もした。

 秋、畑の作物が実り、川にはシペ(鮭)が遡上する。マレプ(回転銛)、ラウォマプ(筌)等のアイヌの伝統的漁法。そして、鮭の調理法、保存法、利用法にもアイヌの多彩な知恵と工夫がある。

 アイヌの家つくり。大地に貝を使って穴を掘り、柱を立て、チセ(家)を建てた。チセノミ(新築祝い)には、大勢のアイヌが集まり、火の神へ祈る。女たちのウポポ(座り歌)、ホリッパ(踊り)やヤイサマ(即興歌)が始まる。

  二風谷集落の目の前の沙流川に、1994 年、ダムができた。沙流川の広い河川敷に作られていた多くの農地は水没した。この記録作業はその転換期のただなかで行われたものである。

●2015/12/4 第2回 民俗学上映会

◇第1部『奄美のノロまつり1 -加計呂麻島-』

1987年/カラー/34分/製作:民族文化映像研究所/鹿児島県教育委員会委嘱

数あるノロの神事のうち、加計呂麻島の旧暦2月、4月、6月、11月の映像である。2月の神事(ウムケ)は女性だけで執り行われる。毎回、手作りのお神酒をはじめ、食欲をそそるごちそうが登場する。神事で酒食をともにするということは、栄養の摂取を超えた深い意味があるようだ。躍動的な八月踊りとは対照的な静謐さがただよう。


●2015/12/4 第2回 民俗学上映会

◇第2部「奄美の泥染め」

1989年31分/鹿児島県大島郡龍郷町・笠利町・名瀬市

伝統的な衣食住には、地域の風土や歴史が色濃く反映し、さらには地域性を超えた人間の資質の奥深さがにじみ出ている。

この映画は、奄美の泥染(大島紬の別称)の製作工程を記録するとともに、その奥深いものを少しでも明らかにしようとしたものである。

大島紬は、基本的には絹の平織りの織物だが、それが泥染とよばれる技法で染められ、緻密なカスリ模様に仕上げられるところに特色がある。タンニンを含んだテーチギ(シャリンバイ)の煮汁と鉄分を含んだ、田の泥による染めの技法。奄美の泥染の名が、大島紬の別称でもある所以である



●2016/2/15 第3回 民俗学上映会

◇第1部『 山に生きるまつり 』(→民映研動画)

1970年/38分/宮崎県西都市銀鏡(しろみ)

→宮崎県の山村、銀鏡(しろみ)の銀鏡神社では、厳粛に霜月(旧暦11月)のまつりが行われる。そこで行われる33番の神楽は古風な山の文化を伝えており、1977年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。

銀鏡のある米良(めら)山地地帯は、焼畑・狩猟を生活の基本としてきた。近年は12月12日から16日にかけて行われている、この霜月まつりにも、狩猟文化が色濃く反映している。まつりに先立って狩ったイノシシの首を神楽の場に安置し、その前で夜を徹して神楽を行うのである。

12月14日の朝、神社境内に設けられた神楽の場(神屋・こうや)に「おしめ」が立てられる。おしめは神の依代である。 その下には、荒御霊(あらみたま)であるイノシシ、和御霊(にぎみたま)である米、餅などが安置される。そして、各集落からお面様(神面・しんめん)を捧げた行列が集まる。お面様がそろわないと、まつりは始まらない。

 夜に入ると神楽が始まり、翌日午前10時頃まで行われる。舞うのは祝人(ほうり)。草分けの家を中心にした旧家の人々で、世襲である。村の男女が歌を掛け合う神楽囃子は、古代の歌垣を思わせる。

 神楽は三つの大きい構成要素をもっている。一つは神々の降臨を願う神楽。面をつけないで舞われる。二つ目は真夜中から夜明けにかけて行われる、神々の降臨の神楽。神楽をつけた神楽である。三つ目は、夜明け以降に行われるもの。ずり面とよばれるリアルな面をつけ、ユーモラスな所作で生命の誕生や作物の豊穣をあらわす。なかでも30番目のシシトギリの神楽は、古風な狩人の装束をつけた二神が、シシ狩の所作をする。「とぎる」とは足跡を追うという意味である。

 このまつり最後の日、16日朝、銀鏡川の岩場を祭場としてシシバまつりが行われる。イノシシの左耳の肉片7切れを 串にさした七切れ肴を神に供え、その年に獲れた獣の霊を慰めるとともに、これから始まる狩りの豊饒を願うのである。

●2016/2/15 第3回 民俗学上映会

◇第2部「諸鈍シバヤ」(→民映研動画)

1977年作品・40 分/鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍

かつて日本と琉球を結ぶ海上交通路の要衝だった諸鈍は、奄美大島の南、加計呂麻島の東南端部に位置し、「諸鈍長浜に打ちゃげ引く波や諸鈍ミヤラビの目笑歯口」と琉球歌にもうたわれた美しい白砂の浜や巨大なデイゴ並木をもつ静かな集落。

日本内地の芸能と琉球古来の神遊びや祭式舞踊がルーツの村踊りや村芝居などが伝播し、奄美特有の感性豊かな民俗芸能「シバヤ」として開花している。

手踊り、狂言風のパントマイム、人形芝居など11演目が上演される「諸鈍シバヤ」を記録したこのフィルムは、奄美が南海の離島ではなく、日本や琉球、アジア大陸とつながりながら独自の文化を育んで来た事実をあきらかにしようとした映像である。



●2016/3/23 第4回 民俗学上映会Fb

◇第1部「奥会津の木地師」(→民映研動画  2)

1976年/55分/福島県南会津郡田島町針生


日本列島には、近年まで移動性の生活をする人々が活躍していた。山から山へ移動して椀などの木地物を作る木地師も、そのなかにあった。

これは、昭和初期まで福島県南部の山間地で盛んに移動性の活動をしていた木地師の家族、小椋藤八さん、星平四郎さん、星千代世さん、湯田文子さんによる、当時の生活と技術の再現記録である。作品4「うつわ―食器の文化」の制作過程での藤八さんたちとの出会いから生まれた。

この地域はブナを中心にした落葉広葉樹林帯である。藤八さんたちは、ブナを材料とした椀を作っていた。

まず木地屋敷を作る。屋根も壁も笹で葺く、掘立て造りである。家の中には、囲炉裏のある座敷とフイゴやロクロ台などを置く広い土間がある。屋敷ができあがると山の神を祀り、フイゴまつりをする。山の神まつりで藤八さんが唱えた唱え言は、古代のタマフリではないかとみる人もある。谷から水も引いてきた。

椀作りが始まる。男たちは、山へ入りブナを倒し、伐り株に笹を立てて神に祈る。そして、その場で椀の荒型を作る。倒したブナに切り込みを入れて山型を作り、マガリヨキでそれをはつり起こしていく。女たちが荒型を木地屋敷に運び、椀の外側を削って整形するカタブチ作業、中を刳るナカグリ作業と続ける。男たちが、手引きロクロで椀に仕上げていく。

できあがった椀は馬の背で町へ運ばれていく。

人の力で回される手引きロクロは、奈良時代に大陸から導入されたものだという。藤八さんたちは移動性生活をやめ、手引きロクロの作業もしなくなってすでに50年余りたっていた。しかし藤八さんたちの身体には、千年を越す技術の伝統が見事に息づいていたのであった。


●2016/3/23 第4回 民俗学上映会Fb

◇第2部『イザイホー1990年-久高島の女たち』

1991年/カラー/30分/製作:民族文化映像研究所/沖縄県教育庁委嘱

1990年、ついにイザイホーは行われなかった。この記録は、イザイホーを行うことができなかった久高島の女性たちの想いと行動を集積し、また、イザイホーという神事の意味に迫っている。インタビューの中で、島のノロや久高島から那覇に移った女性たちからイザイホーがなくなることに対する複雑な思いが語られている。


●2016/8/3 第5回 民俗学上映会Fb

◇第1部『 ボゼの出る盆行事 』

1983 年/38分/ 鹿児島県歴史資料センタ-黎明館委嘱/鹿児島県鹿児島郡十島村悪石島

悪石島では旧暦7月に、さまざまな盆行事が行われる。

そこに異様な姿をしたボゼが現れ、ボゼマラとよぶ棒で人々を突く。

ボゼは、鹿児島県トカラ列島の悪石島に伝わる来訪神行事である。ボゼは盆の終わりに現れるとされる仮面装束。盆の最終日翌日にあたる旧暦7月16日に、若者が赤土と墨で塗られた異形の面を被り、ビロウの葉の腰蓑を巻き、手首や足にシュロの皮をあててボゼに扮し、手には男根を模したボゼマラという長い棒を持つ。午後に島内の聖地とされるテラ(墓地に隣接する広場)を出発した3体のボゼは、島の古老の呼び出しと太鼓の音に導かれ、島民が盆踊りに集まっている公民館の前の広場を訪れる。ボゼマラの先端についた赤い泥水を擦りつけることで悪霊祓いの利益があり、女性は子宝に恵まれるという。

●2016/8/3 第5回 民俗学上映会

◇第2部『根知山寺の延年』

1991年/56分/糸魚川市教育委員会/新潟県糸魚川市山寺・和泉 他

→糸魚川市の山懐・根知山寺では、毎年8月31日と9月1日に大祭が行われる。

「根知山寺の延年」は、「おててこ舞」とも呼ばれる。延年は「遐令延年(かれいえんねん)」という言葉に由来するといわれ、「遐令」とは「長寿」を意味し、「芸能によって心を和らげることが寿福増長につながる」。 「延年」とは奈良や京都の寺院で法会の後に行われた余興の歌舞遊宴の芸能を指す。

山寺の延年は、風流(初期の歌舞伎踊)と稚児舞楽を中心に神楽・万才・獅子舞の類が加えられた計10曲で構成されている(1:おててこ舞、2:狂いの舞、3:鏡の舞、4:花の舞、5:弓の舞、6:鉾の舞、7:種蒔き、8:しめの舞、9:万才の舞、10:獅子舞)。舞の由来や起源は明らかではないが、歌詞の中に室町小歌に見られるような言葉や使い方があって、京都の流れを汲み、約500年前から伝わるものと考えられている。


●2016/11/14 第6回 民俗学上映会Fb

◇第1部『からむしと麻』

1988年/55分

『魏志倭人伝』に苧麻(ちょま)の名で記されている、衣料材料のカラムシ。 同じように古くから利用されてきた麻。 第二次大戦後、それらは急速に日本中から消えていった。

福島県西部の山間地に位置する昭和村は、沖縄県宮古島と ともにただ2カ所のカラムシの生産地である。そして数少ない麻の生産地のひとつでもある。

カラムシは、イラクサ科の多年草であり、根の植え替えを5~6年に1度する。5月、太い直根から出る側根を切り、 移し植える。2年目以降の畑では、小満(こまん・立夏の半月後・5月20日頃)にカノ(焼畑)をする。芽の成育をそろえ、 害虫の卵を焼くためである。

次に、畑の周りを茅の垣根で囲い、風で茎がふれあって、傷がつくのを防ぐ。7月下旬、 2mほどに成長したカラムシを刈り取る。その日に苧(お)引きできる量だけを刈る。苧引きとは、剝いだ表皮を苧引板 にのせてヒキゴとよぶ刃物で肉質部をそぎ、繊維をとることをいう。とれた繊 維は家の中で干される。

麻は、クワ科の一年草。5月に種を播いて、8月下旬に刈り取る。刈り取り後、天日で乾燥する。彼岸頃にオツケ場で4日間水に漬けて柔らかくし 、表皮を剝ぎ、さらに水に漬けてから苧引きをし干される。 この後、米糠の汁で煮て手でもみ、床に叩きつけていく。ここまでの作業が、カラムシと麻では異なる。

冬、糸を作り、布を織る 。 まず苧うみ。 繊維を爪で細くさき、唾でしめらせながら長くつないでいく。

これに糸車で縒りをかけ、糸にする。次に糸ノベ。1反分の長さの経糸を必要な本数だけ数えとる。経糸をオサに通し、機にかけて織る。 機は地機である。

昭和村の人は、カラムシには「キラがある」と言う。 きらめきの意味で、光沢のことをいう。

透けるほど繊細に織られる新潟県の越後上布の材料はこのカラムシで、昭和村はその供給地であった。


●2016/11/14 第6回 民俗学上映会Fb

◇第2部『竹縄(たけなわ)のさと』(→民映研動画)

1979年/36分  埼玉県秩父郡東秩父村御堂荻平

→東秩父村は秩父山地の東側にある集落で、昭和20年代まで盛んに竹縄が作られていた。その経験者、関根ヒロさんと若林チョウさんを中心に、萩平の人々によって行われた竹縄作りと、その多様な利用法の記録である。

竹縄は丈夫で弾力性にとみ、また水に強い。東秩父村で作られた竹痛は、東北地方南部一帯から関東地方一円にかけて用いられてきた。

竹縄にはマダケとハチクを用いる。萩平の人々は、米のとぎ汁や煮た大豆をまいて竹林を大切に育ててきた。

竹伐り旬(最も適した竹が得られる期間)は、7月末から8月初めに3日間ほどしかない。この間に新子(その年に生えた竹)を伐り、火にあぶって油抜きをし、細く小割りにする。そして乾かして、秋まで火棚の上や屋根裏に保存する。縄にする作業は秋から翌年春までの農閑期に行う。沢の水をせきとめて作った竹シテ場に、小割りした竹を1週間漬けて柔らかくする。柔らかくなった竹の表皮を剥ぐ。次に「竹ヘギ」、肉質部を0.5㎜ぐらいに薄く剥ぐ。肉の厚い竹で12枚、薄いもので6枚くらいに剥ぐ。「縄縒り」、縒りをかけながら長くつないでいく。縒った縄はクモデに巻きとる。「縄ブチ」、クモデを使って縒った縄をさらに3本縒りにする。そして、縒りかけ機で縒りをしめ、「コスリ」をして縄目をつぶす。

竹縄には、その特徴を生かしてさまざまな利用法があった。

屋根材や蚕棚の結束、井戸の釣瓶縄、足洗い下駄の鼻緒、自在鉤の結束、牛馬のくつわ、まつりの山車の土台の結束などである。また秩父地方では、死者の棺をになうとき、必ず竹縄を1本使わなければならないとされていた。秩父の山村の人々にとって、竹縄は日常生活になくてはならないものであると同時に、生活の糧を得る重要な手段でもあった。

●2017/4/18 第7回 民俗学上映会Fb

◇第1部『秩父の通過儀礼 その1 ―安産祈願から帯解きまで』(1978年、45分)(→民映研動画)

埼玉県秩父郡長瀞町井戸/皆野町三沢・藤原・立沢/吉田町下吉田

→<民映研説明文>

 人は、個としての生涯をたどるとともに、家族、社会の成員としての生涯をたどるが、その生涯のある年齢的時期時期に行われる多くの人生儀礼があり、その時期を通過する儀礼という意味で通過儀礼と呼ばれている。
 この記録映画シリーズは、埼玉県秩父地方における通過儀礼を五つの時期に分数し、それぞれを独立した五本の記録映画に束ねたものである。その第一編がこの「安産祈願から帯解きまで」。子どもの誕生前から数え年七才までのものをとり上げたのだが、一般的に言っても、この時期が、最も密度の高い人生儀礼の時期である。
 映画は、安産祈願から始まる。秩父に限らず産泰さまは多いが、岩根神社(犬神信仰の山)のツツジトンネルをくぐって御礼参りに来る人がたくさんある。特に、奉納物は底の抜けた柄杓で、拝殿の奥に山と積まれている。また、藤原安産堂には安産祈願でおこもりする人が多かった。ここにもほうきや、節を抜いた竹筒などの奉納物が多い。
 かつて子どもを生みながら、その子を育てることができず間引きをする風習が日本の各地にあったが、秩父は厳しくその風習を戒めていた。子どもを生みながら、殺す親の心は鬼だと考え、大きな扁額が三十三番札所にかけられてある。そうした背景を持ちながら、赤子がどのような過程を経て一人前の子どもになってくるかを追ってゆく。
 ある家で子どもが生まれた。かつては自宅分娩である。その産室の様子、産湯の扱い方、禁忌をさかのぼって考える。そして、生まれて三日目、近所の便所神さまに赤子を抱いてお参りする風習が、何かを考えさせる。
 やがて、赤ダキ。近所の人、親類に初めて赤子を抱いてもらう。お宮詣りは、母親が子を抱いて氏神様に報告する日であり、晴れて里帰りのできる日でもあった。百日たつと、歯がため。石を赤子に食べさせるということを連想させる行事である。
 初めての正月、初めての節句、三月、五月、底には秩父ならではの風習が厳しく行われている。夜泣き封じ、百軒着物、ほうそう祭り。
 そして、七五三。秩父では、帯解き祝いといっている。ここで初めて幼児から子どもへと転換し、一人前の社会の構成員としての扱いをうけるようになるのである。映画はここで終わるが、続編として子どもから青年までの節目を追ったものを続いて完成する予定である。


◇第2部『御伊勢講とほうそう踊り』(1979年、31分)

「御伊勢講」とは、伊勢信仰をもとに作られた集まりです。鹿児島県の笠沙町の小浦・片浦・野間池では、賑やかで荒々しいことを好む伊勢の神、オイセサンを喜ばせ、集落安泰・厄病退散を願うさまざまな習俗が伝承されています。

「ほうそう踊り」の疱瘡(ほうそう)は、天然痘(てんねんとう、smallpox)です。疱瘡(平安時代)→痘瘡(室町時代)→天然痘(江戸時代)と名前が変遷しました。細菌やウイルスが未知の時代、疱瘡やコレラなどの感染症で何百万人、何億人という人があっという間に亡くなる時代がありました。西洋医学は、こうした感染症や急性期医療に有効な医学として、急速に発展して近代で力を得た学問です。古代での謎の死因に対しては、ひたすら神仏に加護を求めるしか対処法がありませんでした。人びとの生命と死、神仏と祈り、などが芸能化したものが「疱瘡踊り(ほうそう踊り)」なのです。1979年の鹿児島で撮影された『御伊勢講とほうそう踊り』を見ながら、日本人の信仰、暮らし、医療など、色々と共有できればと思います。